間奏 〜月〜
昨晩よりもやや細くなったように見える月が、淡い光を放っている。
フローティア邸の玄関とちょうど反対側にあたる部分に、小さな庭がある。庭といっても広さはそれほどなく、白い石で出来た、背もたれのない簡素な椅子が四脚と、それに囲まれるように置いてある、同じ材質の円卓があるのみだ。だが、無理に人の手が加えられた木々や花々で飾り立てる必要もなかった。周囲は一面、森なのだから。
ミストは椅子の一つに座り、ただぼんやりと、月を眺めていた。
彼女は、この場所が好きだった。周りを壁で囲まれ、森の木々に遮られながらも、その隙間から、月を見ることが出来るからだ。
何故、月が好きなのか、彼女にも分からない。ただ、月は郷愁を誘う気がする。月の光が、今は亡き、淡く甘かったあの日々を思い出させてくれるからかもしれない。
――その時、背後で音がした。
(……ヴィン?)
気配で何となく分かる。
ざっ、ざっ、と武骨に土を蹴る足音。それに混じってかちゃかちゃと、物がぶつかる音が混じっていた。
ミストの予想通り、建物の陰から、ヴィンスターレルが慣れない手つきでティーポットと、二人分のカップが載った盆を手に近づいてくる。
「よぉ」
そういうと彼は、石のテーブルにそっと盆を置いた。
「こんばんは。どうかなされたのですか?」
ミストが訊ねると、ヴィンスターレルは何故か照れたように頭を掻いた。
「いや、爺さんにお前の居場所を聞いたら、ここにいるって言われたもんだから」
そう言うと、ヴィンスターレルはぎこちない仕草で、ポットからカップに茶を注ぐ。
「あ、悪ぃ。零れた」
「構いませんよ。ありがとうございます、ヴィン」
そういうと、ミストは、カップの載った皿をひとつ、手にとった。柔らかな湯気が昇り、冷えた顔を温める。
「少し冷えるな」
ヴィンスターレルは端正な顔を僅かに顰め、腕を擦りながらそう言う。
「お前は大丈夫か?」
「ええ、わたくしは平気です」
ミストは白いドレスの上から、毛糸で編んだ外套を羽織っていた。
「そうか……ここ、いいか?」
そう言いながら、ヴィンスターレルはミストの隣の椅子を指差す。
「ええ、勿論。ヴィンこそ寒くないのですか?」
「まぁ、俺は頑丈に出来てるしな。茶もあることだし。ほんとは酒のほうがいいんだが」
ミストの言葉に、ヴィンスターレルは白い歯を見せて笑った。つられてミストも、くすくすと笑い声をあげる。
「ご所望でしたら、お酒もありますのに」
「いいんだよ。俺が『爺さん、何かくれ』って適当なこといっちまったんだから」
「そうですか……」
「そんなに笑うことねぇだろ」
「ごめんなさい……」
子供のようにそっぽを向くヴィンスターレルに、ミストはまた笑いが止まらなくなってしまう。
「ここって、いい場所だな。月も綺麗だし」
二人して茶を飲みながら、ヴィンスターレルはそう漏らす。
「ええ。わたくしのお気に入りの場所です」
そう答えながらも、ミストの胸は痛んだ。本当は、自分だけの好きな場所ではなかったから。
「それより、ヴィン。わたくしに用があるのではなかったのですか?」
一瞬の回想を振り切ると、ミストはヴィンスターレルにそう聞いた。
「……いや、その……ありがとな」
少しためらったあと、彼は礼の言葉を述べる。
「何のことでしょう?」
そう聞き返しながら、ミストは、ヴィンスターレルの言葉の意味を察していた。
(やはり、ヴィンは勘が鋭い……)
ミストの言葉に、ヴィンスターレルは溜息を吐き、こう答える。
「分かってる癖によ……お前ってほんと、性格悪ぃよな。お前が泣いたの、あれ、演技だろ?」
「……どうして、そう思われるのですか?」
「後から気づいたんだよ。あの時はお前があまりにも泣くもんだから、うろたえちまったからな。でも、うろたえることで、俺は昔のことを考えて悲しむ暇がなくなった。それを狙ってたんだろ? 違うか?」
ミストはまた胸が痛むのを感じた。そして、静かに頷く。
「やはり貴方のことは欺けないようですね……そのとおりです」
「やっぱりか。喰えねぇやつだよ、お前は」
でも。
「……でも、わたくしが、悲しいと思ったのは本当なのです……信じて下さいますか?」
本当。
そう言いながらも、自分の気持ちに『本当』があるのかどうか、ミストには自信が持てないでいる。いつからだろう、そうやって演技をしだしたのは。自分が一番に欺いているのは、自分自身ではないのか。
「ああ、信じてるよ。だからわざわざ礼を言いに来たんだ。恥ずかしいから何度も言わせんな」
そう言うと、ヴィンスターレルはミストから目をそむけ、月のある方角を見上げた。
「……ありがとうございます」
何故。
何故、彼は自分を簡単に信じてくれるのだろう。『信じている』と言ってくれるのだろう。
『この、化け物どもが!』
『あんたらが来たせいで!』
『違う、私たちではない! 信じてください!』
『化け物の言うことなんか信じられるか!』
『そうだ!』
『この化け物どもを殺せ! そうじゃないとまた災いが起きるぞ!』
『そうだ、殺せ!』
『殺せ!』
『ミスト、あなたは逃げなさい!』
『いや! どうしてみんなは信じてくれないの!?』
『そいつも化け物の子だ! 纏めて殺せ!』
『とにかく逃げなさい、ミスト! 私たちがみんなと話し合うから、お前はここにいてはいけない!』
『いやよ! わたしもここにいる!』
『ミスト、わたくしたちは、必ず後から行くから……信じてくれるわね?』
『絶対、後から来る?』
『ええ、絶対』
『……本当に、約束できる?』
『約束』
「なぁ」
再びかけられた声に、ミストは慌てて伏せていた顔を上げる。ヴィンスターレルはまだ、月に目を遣っていた。
「聞いていいのかどうか分かんねぇけど……お前、家族とかは?」
「わたくしの家族は、ジェイムと、アーシェですよ」
そういってミストは、ヴィンスターレルの横顔に微笑んでみせる。
「……いや、そうじゃなくて……」
「わたくしの両親は、わたくしが幼い頃に亡くなりました」
「そうか……すまなかった」
ミストの言葉を聞いたヴィンスターレルは、月から目を離し、ミストの方へ静かに顔を向けると、穏やかな声で詫びた。
「いいのです。ヴィンだって、わたくしにご自分のことを話して下さったでしょう?」
「そりゃ、そうだが……」
暫し訪れる静寂。二人はただ、月を見ていた。
「……じゃ、俺はそろそろ寝るとするか」
その静寂を、ヴィンスターレルの声が破る。彼は椅子から立ち上がると、その漆黒の瞳をミストに向け、諭すような口調でこう言った。
「お前もちゃんと寝ろよ。風邪なんかひくんじゃねえぞ」
「はい。ありがとうございます。お休みなさい、ヴィン」
「ああ、お休み。それと、その盆、あとは頼んでもいいか?」
「ええ。わたくしが片付けておきます」
ヴィンスターレルの言葉に、ミストは思わず苦笑した。
「悪ぃな」
「いいえ。こちらこそ」
やがてヴィンスターレルは、ミストに背を向けると、建物の陰へとまた戻っていった。
(ヴィン……不思議な人……)
ヴィンスターレルの後姿を見送りながら、ミストはそんな事を考えた。そしてまた、月へと視線を戻すと、小さく溜息を吐く。
相変わらず、月は淡い輝きを纏っていた。