変動 1
日増しに冷たくなっていく風が、頬を撫でる。
だが、中天にある暖かな陽射しのおかげで、それも心地よかった。
ヴィンスターレルは、『鎮守の森』から王都マイラへと向かう道中に居た。しかし――
(何で俺がこんな格好を……)
今日の彼の出で立ちは、淡い光沢を放つ、翠色の上等な織物で出来たローブ。短めで黒かった髪は、やや栗色がかった肩までの長髪になり、所々に白いものが混じっている。口元に蓄えられた髭、目じりには皺が寄り、四十代は過ぎているように見える。ヴィンスターレルを見知っている者でさえ、一目で彼とわかるものはいないだろう。
「……なあ、ミスト」
「これ!」
口を開いた途端、木製の杖で小突かれた。
「――ってぇな、何すんだ!」
「あたしゃ、ジェルダだよ。もう忘れたのかい? ドーマ」
「……」
ドーマと呼ばれたヴィンスターレルは、杖で殴られた箇所を擦りながら、彼を小突いた張本人を見遣り、溜息をついた。
そこには、真っ白になった髪をうしろで結い上げ、色違いの紫ではあるが、ヴィンスターレルが着ているようなローブを纏い、背筋の曲がった老婆がいた。どう見ても八十代は超えているように見える。下手をしたら百歳といっても通るだろう。顔中皺だらけで、所々にしみが浮いている。
(『趣味』もここまで来ると病気だよな……)
まだ痛む頭を抑えながら、ヴィンスターレルはまた溜息をついた。
今朝のことである。
「ヴィン。お話がありますの」
もう既に日課となっている、ジェイムとの剣の鍛錬を終えてから、ヴィンスターレルが玄関からホールへと入った途端、ミストにそう切り出された。
「ん? 何だ?」
鍛錬で火照った身体を手で仰ぎながら、ヴィンスターレルは問う。常人を逸した能力を持つ彼だが、ジェイムには未だ敵わない。体の節々がやや痛む気がする。
「その前に、お疲れでしょうから、お風呂をどうぞ」
「あ……ああ」
間髪入れずにミストにそう言われ、多少戸惑うヴィンスターレルだったが、その申し出は確かにありがたかった。全身に汗をかいているので、今はさっぱりしたい。彼は、そのままあてがわれた自室へと向かった。
ヴィンスターレルが風呂に入り、着替えを済ませると、アーシェが彼の分の茶を用意して待っていた。風呂上がりということを考慮してか、細いグラスに入った、ひんやりと冷やされた茶だった。アーシェは無愛想だが、使用人としては非常に有能である。ヴィンスターレルはアーシェに礼を言ってから、冷たい液体を一気に飲み干した。喉を通る感触が、何とも心地よい。
「ではヴィン。こちらへ」
ヴィンスターレルが茶を飲むのを見届けると、ミストは彼の手をそっと取り、中央の階段へと誘った。
「おいおい……一体何なんだよ」
ミストの奇異な言動には大分慣れたヴィンスターレルだったが、やはり何の説明もなしに振り回されるというのは、正直言って居心地が悪い。ミストに引きずられるように階段を昇る彼だったが、つい口からぼやきが漏れた。
「わたくしのお部屋へいらしてください」
「――え?」
ミストがこちらを真っ直ぐに見つめている。ヴィンスターレルは胸の鼓動が早まるのを感じた。フローティア邸に滞在してもう一月近くになるが、考えてみればミストの私室へと招かれたのは初めてだ。彼女の碧の瞳が潤んでいるように見えるのは気のせいだろうか。ヴィンスターレルも男である。奇人とはいえ、絶世の美女の私室に招かれ二人きり、という状況に、様々な妄想が膨らんでしまう。
(だが、こいつだしなぁ……)
ヴィンスターレルはそう考えると、妄想を一旦押しのけ、ミストに導かれるまま、二階の一番右のドアへと歩みを進めた。
「どうぞ」
ミストがドアを開ける。
「……何だこりゃ」
その瞬間、ヴィンスターレルの口から零れたのは、そのように間が抜けた一言だった。
部屋はとても広い。向かって正面に大きな窓があり、その前には重厚な木製の机と椅子がしつらえてある。部屋の右隅には天蓋つきの豪奢なベッド。ベッドと机の間には木製の大きな衣装箪笥だろうか、それが三つほど並んでいる。ベッドの手前、右側の壁には上品な雰囲気の鏡台。同じく右側中央には、白い暖炉。そして、部屋の中央には、背の低いテーブルと、革製の長椅子が一脚。
恐らく、間取りとしてはヴィンスターレルが私室として使っているものと同じようなものだろう――そのはずなのだが。
窓と机、ベッド、衣装箪笥、鏡台、そして暖炉以外の壁一面は重厚な書棚で覆われていた。しかも本の並べ方はまばらで、高さも揃っていない。そのまま書棚の中や、窓の前の机、床にまで平積みされているものや、ページが開かれたまま、散乱しているものもある。そのため、隙間が出来ている書棚も幾つかあった。その隙間を埋めるかのように、人形や縫い包みなどが押し込まれ、やはり入りきっていないものは、床に転がっている。衣装箪笥の扉は開け放たれ、様々な種類の服が丸見えになっていて、また他にもベッドの上、中央の長椅子の上、床などにもちりばめられていた。その他、占いにでも使うのだろうか、カードのようなものがテーブルに広げられたままになっていたし、鏡台の前には化粧道具が出しっぱなし、さらに紙屑、ヴィンスターレルには理解できない器具や道具、物などがあたり一面を占領していた。
一言で言えば、物凄く散らかっているのである。正に足の踏み場もない。
「これって……ムードってもんが……」
思わず、そう呟いたヴィンスターレルに、ミストが悪戯っぽく笑ってみせる。
「あら、ヴィン。何かを期待されていたんですか?」
「……う、いや、そういうことじゃなくてだな……」
「顔が赤いですよ」
やはり、からかわれていたらしい。満更でもなかったので、ややうろたえながらも、ヴィンスターレルは何とか自分をとり戻すと、子供に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を発した。
「それよりお前、この部屋、何とかなんねぇのか?」
「……わ、わたくし、片付ける事が苦手でして……」
痛いところを突かれた、というように今度はミストが恥ずかしげに目を逸らした。
「あのな! そんな問題じゃねぇだろこれは! どうやったらこんな広い部屋をこれだけ散らかせるんだ!」
「……まあ、わたくしには、どれがどこにあるかは分かりますし、何の問題も……」
「駄目だ! 俺が片付けてやる!」
言い訳じみたミストの発言に痺れを切らし、ヴィンスターレルは怒鳴った。とりあえず、手近のものに触れようとする。彼は意外と几帳面な所があるのだ。実際、あてがわれた部屋も、元々荷物が少なかったことや、部屋自体に物が少ないことを差し引いても、綺麗に整えられ、毎日の掃除も欠かさず自分でやっている。宮廷内にいた頃も同様で、部屋は常に整頓されていた。
「いけません! 本当に物が分からなくなるのです!」
「喧しい! こんな部屋、許せるか!」
縋りつくミストを引きずり回しながら、ヴィンスターレルは、手際よく部屋を整えていく。
「……ああ、それはそこにないと!」
「ここに無くても何とかなる! ……大体、自分で出来ねぇなら、アーシェにでも頼めばいいだろうが!」
「ですから、頼むと物の場所がわからなくなるのです!」
「お前、頭いいんだから、後で覚えろ!」
本気で嫌がっているように見えるミストの制止をことごとく振り切りながら、ヴィンスターレルは尚もミストを身体にぶら下げたまま、部屋の中を練り歩いた。
「恥をしのんで、わたくしの部屋にお招きしたのは、火急の用件があるからなのです! ああ、ポーちゃんが……」
「恥をしのぶくらいなら、あらかじめ片付けておけ! 大体、俺が風呂に入る余裕もあったんだから、そういうのは火急とは言わん!」
ポーちゃんと呼ばれた、ヴィンスターレルには鉄屑にしか見えないものを棚にしまいながら、食い下がるミストに、ヴィンスターレルは冷たく答える。その間も作業の手は休めない。
「紙屑を床に撒き散らすな!」
「……それは……あとで使うかもしれないですし……」
「そういうのは大抵二度と使わねぇんだ! 大体丸めてあるじゃねぇか! 捨てるぞ!」
「あああ……」
そのような攻防を繰り返した結果、流石に服や化粧道具類にはヴィンスターレルも手を触れなかったものの、小一時間後には、部屋は見違えるほど綺麗になっていた。
「……で? 『火急の用件』ってのは何なんだ?」
ヴィンスターレルは、部屋の中央にある長椅子に腰掛けると、ミストにそう訊ねた。
ヴィンスターレルが手を顔の前で組み、じっとミストの答えを待っている間、ミストの方はというと、表情を輝かせながら、広い――正確には広くなった、というべきか――部屋の中をうろうろしていた。
「ヴィン、貴方にこのような才能があったとは驚きです。本当に多才な方ですね! わたくしのお部屋が見違えるように……素晴らしいです! また是非お願い致しますね」
「……」
「ポーちゃんも、良かったですね。こんなに素敵に飾って頂いて」
「……」
「ああ、本の並べ方も素敵。これで探しやすくなります」
「――ミスト!」
堪りかねて大声をあげるヴィンスターレルを、ミストは優雅に首を傾げながら、不思議そうに見遣る。
「どうなさったのですか? そんなに大きな声をお出しになって」
その一言に、ヴィンスターレルはテーブルに両の手のひらを勢いよくぶつけると、怒りを露わにした表情で立ち上がった。
「あ、の、なぁ〜! 『どうなさったのですか?』じゃねぇ! まず、部屋は自分で片付けろ! 大体が、出したものをそのまま元の場所に戻しゃあいいんだよ! それから火急の用件があるんじゃねぇのか!? 用がねぇんだったら、俺はさっさと部屋に戻るぞ!」
「ああ、そのことでしたか。大変失礼致しました」
ミストは悪びれた素振りも見せず、にっこりと微笑む。殆どの男なら、この笑顔だけで全てを許せてしまうだろう。だが、ヴィンスターレルは一部とはいえ、ミストの実態を知っている。
「いいからさっさと説明しろ!」
それでもミストのペースに嵌まってしまうのは、彼の人の良さゆえかもしれない。憮然としながらも、再び長椅子に腰を下ろす。このような状況でなければ、あの鉄屑にしか見えない物が、何故『ポーちゃん』なのか聞いてみたい所だったが、その言葉はあえて飲み込んだ。
「陛下から、王宮へ来るようにとのお達しを頂きました」
本棚を見つめたまま、ミストは静かな声で唐突に告げる。
「それって……『エシャルリアーデ・ラサイン』としての仕事か?」
「はい」
「まさか……俺にもついて行けって言うんじゃ……」
「お察しの通りです」
その言葉を聞き、ヴィンスターレルの脳裏に宮廷に居た日々の映像が一気によぎった。
「俺は、宮廷を追い出された身だぞ!? 大体、俺の事を知っている奴なんて大勢……」
「わたくしは、変装が趣味だと申し上げたはずですが?」
ヴィンスターレルの言葉が終わるのを待たず、ミストはそう言うと、再び優雅に微笑んだ。
――そして、ヴィンスターレルは『ドーマ』として、『ジェルダ』と共に、王宮へと『仕事』に向かうことになったのである。
「ミ……ジェルダ」
「何だね? ドーマや」
ニタリ、と不気味な笑みを浮かべて老婆はこちらを振り向く。
歯にも黄色いしみが浮かび、声も嗄れ、頭ではミストと分かっていても、とても同一人物とは思えない。目の前の老婆に対してなのか、ここまでやるミストに対してなのか分からない悪寒を堪えながら、ヴィンスターレルは小声でミストに耳打ちした。王都マイラの北門が近づいているためである。
「俺はお前と違って、声音を変えるなんて器用なこと出来ねぇぞ。いくら姿を変えたからって、俺を知ってる奴が居たら、すぐさまばれちまう。国王だって俺のことを覚えてるかもしれねぇし……」
ヴィンスターレルは一時期、王宮正規軍の副隊長を務めていた。当然、式典などにも顔を出している。国王と直々に話したことなどは無いが、ヴィンスターレルが軍の訓練を指導しているところに、王が視察に来たことは何度もある。その際に声を聞かれ、覚えられている可能性もないとはいえない。何より、今は王宮に入り込むことだけでも不安なのである。可能性は少なくとも、言葉にせずにはいられなかった。
するとミストは、あたかもその不安を見越したように、また笑みを浮かべると、ヴィンスターレルにこう返した。
「問題ない。あんたは黙っとりゃええ。それに、あたしが『幻影師』という事を忘れたのかぇ?」
「そりゃ、そうだが……」
それでも尚、不安が拭い去れないヴィンスターレルだったが、とりあえずはミストのその言葉に納得することにした。
やがて、巨大な石の壁で囲まれたマイラの北門が前方に見えて来る。ヴィンスターレルは緊張に身を硬くした。別段やましい所があるわけではないのだが、変装などしたことのない彼にとっては、それだけで心が乱れる。やはり慣れない事はするものではない、とヴィンスターレルは思った。
と。
突然、ミストは街道の石畳から逸れ、左――東の方角へと歩き始めた。
ヴィンスターレルは訳も分からぬまま、後に続く。そんな内心を知ってか知らずか、ミストは迷わず歩みを進める。
「――お、おい!?」
「あん? どうかしたかい?」
「門から遠ざかってるぞ!」
「こっちでいいんじゃよ」
そう会話を交わしている間にも、北門は遠ざかって行く。やがて、街道脇の緩やかな傾斜を下ったため、王都を覆う石壁の上方しか見えなくなった。
「……もしかして、秘密の通路とかがあるんじゃねぇか?」
ややあってから、ヴィンスターレルが口を再び開く。
「ご名答、じゃ。さすがドーマは勘がええのぉ」
「目的地がこっちなら、わざわざ門の前まで行くこたぁなかっただろうが」
「あたしゃ、その方が行きやすいんじゃよ」
「……嘘つけ」
「ああ? 何だって? あたしゃ最近耳が遠くなってねぇ……」
(こいつは……)
怒りに震える身体を、ヴィンスターレルは必死で抑え込む。恐らくミストは、初めて変装をして緊張している様子のヴィンスターレルを見て面白がっていたのだろう。その真偽はともかく、ヴィンスターレルはそう確信していた。
もう、ミストのやることに、いちいち腹を立てていては身が持たない。そう腹をくくったヴィンスターレルは、呼吸を整える為、空を見上げてみた。日はやや傾きかけている。相変わらず空は、目に痛いほど青かった。
「ふぅ……」
やがて怒りも収まり、ヴィンスターレルが前方に目を戻すと、少し離れた所で、ミストがこちらに向かって無邪気に手を振っていた。
「仕方ねぇな……」
そう、ひとり呟くと、ヴィンスターレルは老婆の姿をしたミストの後を追った。