微睡みの大地

道程 1

 全ての存在は儚く、必ずどこかへいってしまう。
 己の腕から、すり抜けていってしまう――

(――!?)
 ヴィンスターレルは、全身に汗をかき、目覚めた。
 酷く嫌な夢を見た気がする。でも、覚えてはいない。
 とても曖昧で、脆い夢。ただ、いつも見る、あの時の夢とは違うことだけは分かった。
 周囲はまだ暗い。勿論、このフローティア邸は森の中にあるのだから、例え昼間でも薄暗い。だが、それとは違う空気だった。鳥の歌すら聴こえない。恐らく、日が昇るまでにも至っていないだろう。
 ヴィンスターレルはベッドの中で寝返りをうってみたが、目が妙に冴えてしまい、再び眠りに就くことは難しそうだった。仕方がないので、彼は寝るのを諦め、ベッドから気怠さを抱えたまま、汗を流しに風呂場へと赴く。
 しかし、風呂に入り全身の汗は流れたが、何か不快なものは、彼に纏わりついたままだった。
(――もしかして!?)
 ヴィンスターレルは嫌な予感を覚え、思わず部屋を飛び出した。

 ホールも暗い。
 ヴィンスターレルは明りを灯そうか迷ったが、結局はそのまま進むことにする。夜目の利く彼には、どうということはないからだ。
 それよりも今は、早くこの不安の原因を確かめたかった。
 階段を上り、向かって一番右端――ミストの私室の前へと歩み寄る。
 そして、扉を軽く二、三回叩く。
「……ミスト?」
 返答は無い。いや、そもそも――
 気配が、ない。
 ヴィンスターレルは胸の内の不安が波打ち出すのを感じた。今度は乱暴にドアを叩く。
「おい! ミスト! 返事しろ!」
「どうかされましたか?」
 掛けられた声とともに、ホールが明るくなる。
 照明を点けたのは、ジェイムだった。
 続いてアーシェも、ジェイムの出て来た部屋の、ちょうど反対側に当たる扉から出て来た。二人とも普段と同じ姿だ。恐らく、いつでも動けるようにと、始終同じ格好でいるのだろう。
「爺さん! ミストの部屋の鍵を開けてくれ!」
「――承知しました」
 ヴィンスターレルの剣幕に、ただならぬものを感じ取ったのか、ジェイムは急いで階段を上がってくると、ミストの部屋の前に立つ。
 最初はやや躊躇いを見せたが、それも一瞬の間だった。彼も部屋の中に、人の気配が無いことを感じ取ったのだ。慌てて懐から、水晶球の束を取り出す。
「お嬢様、失礼致します」
 一応、そう声をかけてから、ジェイムは鍵を持った手を、扉へとかざした。
 ドアは音もなく内側へと開く。
 広い部屋は、相変わらず様々なもので溢れ返っていた。
 だが、ミストの姿はどこにも無い。
 大きな窓の隙間から風が入り、上品なカーテンを、はためかせていた。

「これは――もしや、セイノールが!?」
 ジェイムは目を大きく見開き、言葉を絞り出した。その声は、微かに震えている。
「いや、違う」
 ヴィンスターレルは部屋の中に目を向けたまま、静かに言った。
「セイノールの奴らは、メイドスへ来い、と言った。あいつらが必ず約束を守るとは思えねぇが、わざわざミストを攫って行く意味もねぇ」
「で、では……」
 縋るような目で問うジェイムに、ヴィンスターレルは告げる。
「恐らくあいつは……ミストは自分で出て行ったんだ。やってくれるじゃねぇか、俺たち三人に気づかせずに出て行くなんざ」
「そんな……何ゆえ……?」
「俺にも分からねぇ」
 暫し考え込んでいたヴィンスターレルは、ジェイムの方を向き、再び口を開いた。
「……爺さん、確かめたいことがある。案内してくんねぇか?」

 ジェイムとヴィンスターレルは、『鎮守の森』の裏手――つまり、王都マイラの北門側とは反対の方角に歩みを進めていた。
 ジェイムが先導するために、前を行く。
 闇の中、明りも持たずに歩く二人。
 森の中には、二人の靴が踏みしめる落ち葉や木々の上げる、くぐもった悲鳴だけが響く。
 時が経つのが随分と遅く感じられる気がする。
 どれだけ歩いただろうか。
 視界が、開けた。

「……やっぱりだ」
 『鎮守の森』の裏手。辺りには、未だ闇が濃い。
 ヴィンスターレルは、地面に屈み込むと、すぐにそれを発見した。手でそっと触れてみる。柔らかな草地に、穿たれた幾つもの穴。
「爺さん、蹄のあとだ。ここに馬は?」
「いえ。必要が無いので私どもは持ってはおりませぬ。勿論、お嬢様もで御座います。それに……この様に『森』のすぐ傍を馬が通ることは、全く無い、とは申せませぬが、可能性は低いでしょう」
 ヴィンスターレルの傍に一緒になって屈み込み、それを確認しながら、ジェイムはすぐに答えを返した。既に声には落ち着きを取り戻している。
 その言葉を聞き、ヴィンスターレルは頷いた。
「こりゃ計画的だな。馬も事前に用意してたんだろう。あれからミストは何回か出掛けたな?」
「……はい。王都に御用があると仰って」
 そう言うと、ジェイムは深くうなだれた。
 誰もミストに気を配って遣れなかった。
 気づいてはいたのだ、彼女の異変に。ただ、気丈に振舞うミストを見ていると、そのうち治まるだろう、と誰もが勝手に考えていた。
 ミストは強いから――そのような思い込みで。
 だが、誰にも胸の内を明かそうとしないミストの心は、脆かったのだ。何でも自分で解決しようとする強さ――それは、裏を返せば、今にも崩れそうな状態ともいえる。
 そうして、彼女はまた、全てをひとりで解決しようと考えたのだろう。
 蹄の跡は、点々と続いている。
 西――すなわち、メイドスの方角へと。
(――くそっ!)
 ヴィンスターレルは胸の内で毒づき、空を見上げた。
 空はまだ――暗い。

 再びフローティア邸。
 ヴィンスターレルは、私室で、紺色の鎧を身に着けていた。腰には剣を帯びる。
(この格好も久々だな……)
 ここに滞在するようになってから、ずっとジェイムと同じ、武道着のようなものしか着ていなかったので、長い間着用していたはずの鎧が、やけに新鮮なものに思えた。
 あの後、自分もついて行くと言うジェイムを、『留守を守る物も必要だ』と何とか宥め、ヴィンスターレルはミストを一人で追うことにした。だが、足は必要だ。馬で発ったミストに、流石に徒歩では追いつけない。
 王都の門は、日の出と共に開門する。それまでにはまだ随分と間はあるが、一刻も早く馬を手に入れたいヴィンスターレルは、門の前で開くのを待つことに決めた。
 扉を抜け、ホールへと出る。
 そこにはジェイムとアーシェが、心配そうな面持ちで控えていた。ただ、アーシェはいつも通り、一見すると無表情ではあったのだが。
 二人に見送られ、ヴィンスターレルは玄関から森へ、森から外の世界へと出る。相変わらず、空は暗い。深夜だということを差し引いても、天にはどんよりとした重さが立ち込めていた。
 ヴィンスターレルは、大地をしっかりと踏みしめる。

 北門前には、このような時間にもかかわらず、開門を待つ人々が見受けられた。
 その多くは行商人のなりをしている。中には、旅人であろうと思われる者や、芸人のような者もいた。
(こんな時間に来たことねぇからなあ……)
 そのようなことを考えながら、ヴィンスターレルは立ち並ぶ人々の列に加わる。
 時が、長い。
 日はまだ昇らない。
 ヴィンスターレルは逸る気持ちを必死で抑え込んでいた。
 門番に交渉し、先に通してもらうことも考えたが、王宮にいた頃の自分ならともかく、何の肩書きもない今では、それは徒労に終わるだけだろう。下手をすれば、騒動になりかねない。そのような事態になったら、時間をただ無駄に浪費するだけの結果になる。
 改めて己の無力さを思い知る。
(皮肉だよなぁ……)
 ヴィンスターレルが解雇されたのは軍事縮小が行なわれたからで、そのきっかけを作ったのはミストなのだ――いや、そもそもミストの進言とは関係無しに、事は行なわれるようになっていたのだろうか。ヴィンスターレルの頭の中に、二人のセイノールの姿が浮かぶ。
 大体が、ミストと出会っていなければ、ここでこうして焦っている自分も存在しないのだ。
 出会いとは不思議なものだ、とヴィンスターレルは思う。

 どれくらい経っただろうか。
 門番により、開門が告げられた。
 通行証を見せてから、彼は急いで駆けた。

「――何だと!? 馬がない!?」
 門から一番近い、馬を扱っている商店。
 そこでヴィンスターレルは大声を張り上げていた。
「……いや、ですから……先日、馬は全部、王宮の兵士さまがお買い上げになられて……それに、暫くの間、馬は売ってはならないと、陛下からお触れが出されたんですよ……だから、どこの店でも同じだと思います。こっちだって商売あがったりなんですから――あ、今のなしです! 誰にも言わないで下さい!」
 五十代くらいだろうか。口髭を蓄え、その代わり頭が禿げ上がった恰幅のいい店主が、この寒い中、顔中から汗を吹き出しながら、ヴィンスターレルに向かい、ぺこぺこと頭を下げる。
 ヴィンスターレルの迫力に恐れをなしているようだが、自身の失言に対し、さらに焦りを大きくしたようだ。
(――畜生!)
 ヴィンスターレルは内心で舌打ちをした。王都の馬を全て買い上げたのも、馬を暫く売ってはならないという触れも、先日の国王暗殺に絡んでいるのだ。まだ数日しか経っていない為、ここマイラに犯人が潜伏している可能性を考慮してのことだろう。
 ヴィンスターレルは事の顛末を知っているので、そのようなものが功を奏さないことは百も承知だが、犯人が潜伏していると考えてのことなら、あながち無益な策という訳でもない。
「とにかく、今すぐに馬が必要なんだ! 何とかしろ!」
 それでも、焦っているヴィンスターレルは、さらに声を荒げて店主を睨め付けた。今から近隣の町や村に向かうにしても、それぞれかなりの距離がある。その間にも、ミストは遠ざかって行く。
「……何とかしろと言われましても、ないものはないんですよ……勘弁して下さい……」
 ヴィンスターレルが思わず、店主に掴みかかりそうになったその時――
「……あれぇ? ヴィンスターレル殿ではないですかぁ?」
 場にそぐわない、間延びした声が背後から掛かった。
 その声に、店主はヴィンスターレルの肩越しに視線を遣り、明らかに安堵した表情を浮かべている。
(この声……)
 聞き覚えのある声に、ヴィンスターレルは振り返る。
 そこには、黒毛の見事な体躯をした馬に跨った色白の青年が、笑顔を浮かべてこちらを見ていた。
「レク――」
「――警邏隊長さま! ちょうどいいところに来て下さいました! この旦那が、しつこくて困ってたんですよ! 馬はないって言ってるのに!」
 ヴィンスターレルが言葉を発するより早く、馬屋の店主が声を上げる。
「そうですか。それは困りましたねぇ」
 全く困っていないような口調で、笑顔のまま、青年は店主に向かって言う。
「とりあえず、後は僕が引き受けますから、あなたはもう下がっていいですよぉ」
「ありがとうございます!」
 青年の言葉と同時に、店主は謝礼の言葉を発すると、逃げるように店の奥へと姿を消した。
「さてと……」
 青年は馬から下りると、ヴィンスターレルの方へと顔を向けた。そして、深々と頭を下げた後、さらに笑みを大きくし、こう言った。
「お久しぶりです、ヴィンスターレル殿。またお会いできて本当に光栄です!」

 一方ヴィンスターレルは、まだ事態が飲み込めずにいた。頭の中で整理がつかない。とりあえず、一番に思い浮かんだ疑問を口にしてみる。
「ああ、久しぶりだな、レクサー。だが、警邏隊長って……」
「それはですねぇ……僕が志願したんです。だって、王都の警邏隊長をやってれば、またヴィンスターレル殿にお会い出来るかもしれないじゃないですかぁ。でも、本当にそれが叶うなんて、感激です!」
 心から嬉しそうにしている青年――レクサーに、ヴィンスターレルは溜息をついた。

 レクサー・バリュース。
 王宮正規軍の隊長を務めている――いや、務めていた、というべきか――男である。
 小柄でやや細身の身体。小動物を思わせるような、大きな茶色の瞳。柔和で愛嬌のある顔立ち。ぼさぼさの濃い茶色の髪。
 そして、バリュースという姓。
 三大臣のひとり、ダーゼン・バリュースの縁の者――はっきりというなら、ダーゼンの一人息子でもある。
 ダーゼンの一味がヴィンスターレルを毛嫌いする中、レクサーだけは、彼の実力と人柄を認め、筆頭者の息子という立場にありながら、その一味には加担しなかった。それどころか、ヴィンスターレルを尊敬していた。崇拝していた、といっても過言ではない。
 アレスタン王国、王宮正規軍には、全部で五つの部隊があり、レクサーはその第一部隊の隊長であった。ヴィンスターレルは第五部隊の副隊長であったから、格からいってもレクサーはかなり上である。にもかかわらず、レクサーは頻繁にヴィンスターレルの元に通っては、剣を教えて欲しい、と頼み込んで来た。
 ヴィンスターレル自身もダーゼンのことは嫌っていたが、その息子である、という理由だけでレクサーの事を差別したりはしなかった。請われれば剣の鍛錬を一緒にしたし、酒を酌み交わしたこともある。
 年齢は、確かヴィンスターレルよりも二つか三つ程、下だったはずだ。そのためか、ヴィンスターレルもレクサーに対し、何となく弟のような親近感を持っていた。
 何より、レクサーは、その外見によらず、非常に有能な男である。剣技は勿論のこと、交渉術にも秀でている。自分の信念は決して曲げようとはせず、相手を口先で丸め込むのが得意、という面も持っていた。
 恐らく彼の手にかかれば、父親のダーゼンを無理矢理説得することさえも簡単だったのだろう。何度も解雇されそうになったヴィンスターレルが王宮に留まっていられたのは、彼の働きによるものが大きかったに違いない。
 ――尤も、今回ばかりは、無理だったようだが。

「ここの所、ちょっときな臭くてですねぇ」
「……きな臭い、とは?」
 語りだしたレクサーに、ヴィンスターレルは問う。
 勿論、彼には分かっている。国王暗殺のことだろう。
「まぁ、色々あるんですよぉ」
 そう言葉を濁し、レクサーは再び笑顔を見せる。
 彼は口が堅い。相手がどれだけ親しくとも、話してはならないと判断したことは話さない。その点も、ヴィンスターレルがレクサーを高く評価している理由の一つだ。それに、今の話題を振ることは、情報収集の一環でもあるのだろう。
 ヴィンスターレルは、レクサーが警邏隊長を志願した理由が、少しだけ分かったような気がした。ヴィンスターレルに会えるかもしれないという言葉は、恐らく真実の一面しか表してはいない。
「ところで……馬を必要としているみたいですねぇ」
 レクサーは話題を変えた。その言葉に、ヴィンスターレルは我に返る。
「そう、今すぐ必要なんだ、悪ぃが、のんびり話している暇はねぇ」
 ヴィンスターレルがそう口にした途端、レクサーの背後で馬が嘶いた。漆黒の毛並みの馬の目が、こちらに向けられている。
「バース……」
 その名前に呼応するかのように、再度馬は嘶く。そうして、ヴィンスターレルの元へと近づき、鼻先をヴィンスターレルの手に擦りつける。レクサーはそれを見て、苦笑した。
「やっぱり……元のご主人さまには勝てないなぁ」
「お前が、バースを?」
「はい。だって、敬愛するヴィンスターレル殿の愛馬ですよ! 絶対欲しいじゃないですかぁ」
 真顔で言うレクサーに、今度はヴィンスターレルが苦笑する。
 今になって気がついたが、レクサーもヴィンスターレルと同じような、紺色に鈍く光る鎧を身につけている。恐らく、ヴィンスターレルの物に似せて作らせたのだろう。
「レクサー、ありがとな。バースは大事にしてもらったみてぇだ」
 バースの漆黒の毛は、光沢を失っていない。世話が行き届いている証拠である。
「勿論です! ヴィンスターレル殿から譲り受けた馬を、無下にはできませんよぉ」
 実際は直接譲り受けた訳ではないのだが、レクサーは誇らしげに胸を張って見せた。
「それより――」
「お使い下さい」
 ヴィンスターレルの意図を汲み取ったのか、その言葉を遮り、レクサーは言う。
「……いいのか?」
 今さら躊躇するヴィンスターレルに、レクサーは白い歯を見せて笑った。
「本当は、困るんですけどねぇ。それに、バースが居ないと寂しくなりますし……でも、ヴィンスターレル殿がお困りなんですからぁ、仕方がありませんよぉ。また代わりの愛馬を見つけることにします」
「悪ぃ、助かる」
 そう言うが早いか、ヴィンスターレルは愛馬の背に跨る。腹を蹴ろうとしたその時、レクサーが、口を開いた。
「僕は、ヴィンスターレル殿のことを信じていますから」
(こいつ……!?)
 その言葉の意味するものは何だったのか、確かめる間もないまま、ヴィンスターレルは既にその場を離れていた。後ろは振り返らず、片手だけを上げて別れの挨拶とする。
 遠ざかって行くヴィンスターレルの背中を見送りながら、レクサーはひとり、呟きを漏らしていた。
「やっぱ、かっこいいなぁ……」
 そして彼は、王宮へと戻るため、踵を返し、歩き始める。

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