微睡みの大地

道程 2

 暫くぶりのバースの背の上。それでも、彼はヴィンスターレルの思うように動いてくれた。
 風を切る、久々の感覚。耳元で、空気が唸りを上げる。
 大地が、風景が、次々と背後に流されて行く。
 ヴィンスターレルは、バースと一体となり、ひたすら駆ける。
 西へ。
 西へ。
(だが……)
 ミストの行く先がメイドスだとしても、一体どうやって見つけ出せば良いのか。
 アレスタン王国とメイドス共和国は、今回のように協定が組まれ、休戦状態になることも幾度かあったものの、長きに渡る争いを繰り返して来た。そのため、それぞれの国境付近には厳しい警備体制が敷かれている。
 現在、協定のため、一般に解放された場所は、ヴィンスターレルが耳にした情報によれば一箇所のみ。メイドスへと渡るのであれば、そこへと向かうしかない。
 ミストが、あの触れが出される直前に動いたのか、王都ではなく、近隣の町か村に寄ったのか、それとも、何か裏から手を回したのか――どのようにして馬を手に入れたのかは分からないが、恐らく、民間人向けに取引されている馬だと考えて間違いないだろう。
 それに比べ、バースは軍馬となるため、特別に交配され、調教されて来た馬だ。さらにいうなら、ヴィンスターレルと多くの戦いを共にして来た戦友であり、生き残って来た選り抜きの軍馬である。
 今ならまだ、メイドスに先回りする事も、ミストに追いつく事も可能なはずだ。
(出来るなら、メイドスの手前で追いつきてぇな……)
 国境と一口に言っても広大である。そして、ミストが『一般向けに』解放された場所に向かうとは限らない。彼女には『幻影術』がある。国境の門で待っている間に、別の場所から巧く潜入されれば、見つけるのがさらに困難になる。
 ヴィンスターレルが逡巡している間にも、バースは西へと走り続ける。
 その時。
『――こちらだ』
 声が聞こえた――気がした。
 ヴィンスターレルは咄嗟に辺りを見回すが、見えるのは、まばらな木々や草、遠くに在る山々ばかり。人の姿など見当たらない。
 そもそも、幾らヴィンスターレルの聴覚が優れているといっても、この速さで走っている馬上で、囁くような今の声が聴こえるはずはない。
 耳に届くのは、風の音ばかり。
『こちらだ』
 今度は、先程よりもはっきりと聞き取ることが出来た。
 いや、『聞き取る』という表現が正しいのかどうか。
 頭の中に直接響くような、『声』。
 思わずヴィンスターレルは、バースに速度を緩めさせた。暫く全速力で走らせて来たので、彼は荒い鼻息を立てている。
「お前か? バース」
 ヴィンスターレルは、下にいるバースに向かって語りかける。
 当のバースは、ただ前方を見たままで、歩き続けるだけだ。
「――んなわきゃねぇか」
 そう呟いてから、ヴィンスターレルは深呼吸を一つした。
 そして再びバースを走らせる。
 『声』の示した方角へと。


 その頃ミストは、馬を休ませるためと、昼食を摂るために、途中にあった小さな村に立ち寄っていた。日は既に中天にある。
 宿も兼ねているという、家庭的な雰囲気を醸し出している食堂の馬小屋に馬を預け、ミストは店の中へと入った。
 食事時だというのに、客はまばらだった。数人の男たちと、二組の男女。一人で食事を摂っている者も幾人かいた。狭い店だが、それでも空いているテーブルが幾つかある。恐らく、大体いつもこの程度の客入りなのだろう。酒も置いているようだから、もしかしたら夜の方が客が多いのかもしれない。
 そして、そこに居る全ての者が、ミストを見ていた。
 あからさまな視線を送って来る者もいれば、ちらちらと盗み見るようにこちらに目を遣っている者もいる。一組の男女は、時々ミストの方を見ては、ひそひそと囁き声を交わしていた。
 ミストの容貌が目立ちすぎるせいである。
 妙な『変装』をしているからではない。『変装』をしていないからだ。
 服装は、生成りの生地の上着とズボン、革のベルト。その上に、防寒用の毛皮のマント。この辺りでは、ごく一般的な旅装であった。
 だが、その中にあっても、ミストの類稀なる美貌は、人の目を惹き付けずにはいられない。
 しかし、皆、遠巻きにしているだけで、ミストに寄って来る者はいなかった。容貌が際立ち過ぎていて、逆に、気軽に声を掛けづらいのだろう。
 だが、その中でも例外はいた。
「はい! お待たせ! ご注文のランチセットだよ。それにしてもまぁ、あんたみたいな綺麗な娘さんは生まれてこの方見たことがないね! あたしゃ、感動すら覚えるよ! もう何て言うのかね? 絶世の美女? あたしも、あんたみたいな姿に生まれて来てたらねぇ、こんな、うらぶれた店の女将じゃなくて色々と出来たのにさぁ……もぅ、何度見ても惚れ惚れする! 女のあたしから見てもそうなんだから、男なんかころっといっちまうね! あぁ、あんたみたいな娘がうちにいてくれたら、この店にも、わんさか客が来るんだけど……それにしても、どっから来たの? どこに行くの? いい人と待ち合わせかい?」
 四十がらみのここ――『止まり木』という店名らしい――の女将が、恐ろしいほどの早口で、そこまでを一気に捲くし立てる。
「は、はぁ……」
 ミストは、曖昧な返事を返すので精一杯だった。
「ええ? やっぱりそうなの? あんたのいい人なんだから、すっごい、いい男なんだろうねぇ。それに比べてうちの亭主と来たら……」
 女将は、ミストの言葉を肯定の意味に取ったらしく、また早口で喋りだした。
「――おい、お前! いい加減にしないか! お客さんに迷惑だろ!」
 その時、店の奥から声が掛かった。店主が見るに見かねたらしい。
「……あらやだ、またあたしったら話し込んじゃって。ごめんなさいね、でもね、あんなこと言ってるけど、うちの亭主もあんたにずっと見とれてんだから。これだからやぁね、男ってのは……そうそう、こないだもね――」
「おい!」
 再び発せられた大声に、女将は丸々と太った腹を震わせて笑った。
「じゃあごゆっくり!」
 そう言って身体を揺らしながら離れて行く女将の姿に、やっと落ち着いて呼吸が出来るようになったミストは、小さく溜息をついてから、ようやく食事に取り掛かった。
「いただきます」
 小声でそう言い、まずはスープを口に運んでみる。
(……美味しい)
 口にじわりと広がるスープの味は、かなりのものだった。
 他の料理にも手をつけてみたが、どれもこれも絶品である。これだけのものを作れる料理人は、王都にもそんなにはいないだろう。
「ねぇ? あんな別嬪さんがこの世にいるなんてねぇ……」
 後ろから聞こえた大声に、ミストが恐る恐る振り返ると、女将が他の、一人客を相手に、お喋りを再開していた。相手をしている方は、さも迷惑そうな顔で相槌を打っている。
 ――ミストは、この店に客が少ない理由が分かった気がした。

 食事を終えた後、尚も色々と話し掛けて来る女将を適当にあしらい、彼女の「あんたのいい人によろしくね!」という声に送られながら、ミストは『止まり木』を後にする。
 馬のふさふさした鬣を撫でてから、その上に跨り、軽く腹を蹴る。馬はミストの身体に振動を伝えながら、軽快に走り出した。
 西へ――

 日は傾き、空は茜色に染まり始めていた。
『こちらだ』
 ヴィンスターレルは頭の中で囁く『声』に従い、バースを駆る。
「……お前は、一体何者だ」
 幾度も繰り返した問い。
 そして、それに対しての返答は一切ない。
 ただ、ヴィンスターレルは何となく感じていた。
 安心感。
 そして、ミストは見つかるのだという確信。
 今までも、ずっと信じてきた、己の『勘』によって。

 そして。

「――見つけた!?」
 ヴィンスターレルの目は、前方を行くミストの姿を捉えていた。
 まだ姿は小さいが、ミストに間違いないと、彼の勘が告げている。
 気がつくと、彼はミストの名を呼びながら、バースをさらに加速させていた。


 遠くから、自分を呼ぶ声が聞こえる。
 聴きなれた、声。
 どこか懐かしい響きの、声。
 そして。
 予感していた、声。
(わたくしは、狡い……)
 ミストには、解っていた。
 黙って屋敷を出て来たところで、ヴィンスターレルが追って来るであろうことも、すぐに追いつかれるであろうことも――
 それでも。
 試してみたかったのかもしれない。自分は誰かに追って来てもらえるだけの、価値がある存在なのかどうかを。
 怖かったのかもしれない。自分は、本当は受け入れられてなど、いないのではないかと。
 そう。
 ずっと怖かったのだ――あの時から。
 でも。

「――お前! 一人で勝手に出て行きやがって!」
 ヴィンスターレルはバースを駆り立て、ミストの乗る、栗毛の馬の脇へと寄せる。その声に孕まれた怒気。ミストは顔を上げることが出来なかった。
「おい! ミスト! 聞いてんのか!?」
 勇気を出し、恐る恐る、顔をヴィンスターレルの方へと向ける。
 怒り。
 心配。
 戸惑い。
 そして。
 彼の漆黒の目には、優しさが溢れていた。
 ミストは、思わず、笑みを零した。

 それから暫くの間、ヴィンスターレルも、ミストも、何も喋らなかった。
 ただ黙って、馬を歩かせる。
 ヴィンスターレルは、後先考えずミストを追って来てしまったが、ジェイムの話を聞いてからというもの、ミストにどう接して良いのかが、分からなかった。
 ミストの気持ちを思うと、とても自分には立ち入ることの出来ない領域のように感じたからだ。
 人と人との距離は物理的なものではない。
 ようやくミストに追いついたというのに、ヴィンスターレルには、まだ彼女が遠くにいる存在のように思えた。
 一方のミストは、何も聞いて来ないヴィンスターレルに、少しの安心と、寂しさを覚えていた。
 朱く染まった大地に、蹄の音だけが、やけに軽快に響く。

「……人は、何故過去に囚われるのでしょうか?」
 道端にあった木に馬を繋ぎ留め、その傍にある石に並んで腰を下ろした途端、唐突に放たれたミストの言葉。
 ヴィンスターレルは慌ててそちらを向く。
 ミストは、夕焼けに染まった空に目を遣っていた。まるで彼女自身がその問いを放棄するかのように。
 ヴィンスターレルは暫く、黙ってミストと同じ方角を見つめたあと、こう答えた。
「……それは、難しい問いだが……あれだな、過去に囚われてるんじゃなくて、こっちが過去を離してやらないだけじゃねぇかな」
「随分と、哲学的なことを仰るんですね」
 ミストはゆっくりとヴィンスターレルの方へと顔を向け、微笑む。その碧の瞳は、夕焼けの雲を反して、不思議な色に煌めいていた。
「似合わねぇか?」
 そう言って、ヴィンスターレルも笑顔を見せる。
「いいえ」
「どちみち、人間なんてもんは、過去の積み重ねで出来てるんだ。過去がねぇなら、今の自分もありえねぇからな。結局は、嫌でも一生付き合っていかなきゃならねぇ」
「……そうですね」
 ミストは、地面に視線を落とす。
「そんなに、俺のことが信用出来ねぇか?」
 今度は、ヴィンスターレルが突然切り出した。
 ミストは慌てて顔を上げ、そんなことはない、と言おうとした。
 だが、その言葉は途中で飲み込まれる。
 ヴィンスターレルの漆黒の瞳が、あまりにも真っ直ぐだったから。
 ミストは、射抜かれたように動けなくなり、口は、勝手に言葉を紡ぎ出していた。
「……分かりません」
 すぐに襲ってくる後悔の念。
 ミストが謝ろうとした、その時。
 ヴィンスターレルは白い歯を見せて笑った。
 そして、片手を伸ばし、ミストの髪をくしゃっと撫でる。
「上出来だ」
「……え?」
 戸惑うミストに構わず、ヴィンスターレルは続ける。
「お前にしちゃ、上出来だよ。それが今の正直な気持ちなんだろ? それでいいんだよ。いつも嘘つくの、疲れるだろ?」
「……ごめんなさい」
 それでも、ミストは謝らずにはいられなかった。自分の気持ちを素直に伝えたことが気恥ずかしくもあり、申し訳なくもあり、何よりヴィンスターレルに褒められて、困惑していた。
「謝らなくていい」
「でも……」
 暫し訪れた静寂。天はそろそろ、夜に場所を受け渡そうとしている。
「……もう行こう。このままじゃ、野宿になっちまうぞ」
 ヴィンスターレルはそう言って、ミストに手を差し伸べた。
 躊躇いながらもその手をとり、立ち上がったミストを確認すると、ヴィンスターレルは、バースを留めていた手綱を外し、彼に跨る。ミストも、それに続いた。

 二人は馬を並べて歩かせる。
 ミストは、逡巡の末、口を開いた。
「……あの子たちが狙っているのは、恐らく、わたくしです……ですから、ヴィンや、ジェイムや、アーシェを巻き込みたくはありませんでした」
 その言葉を予想していたかのように、ヴィンスターレルは穏やかな声で聞いた。
「お前を狙ってるって……どういうことだ?」
 ミストは暫く黙った後、前に目を向けたまま、答える。
「……確証があるわけではないので、今は申し上げられません。でも、恐らく……あの話が真実なら……」
 最後は独白のように、小さく、幽かな声だった。
 ヴィンスターレルは、それについて、何も訊ねなかった。
 黙って、ミストの方へ顔を向ける。
 ミストもそれに気づき、ヴィンスターレルを見た。
 それを確認すると、ヴィンスターレルは口を開く。
「俺には、何がどうなってるのかさっぱり分からねぇ。でもな、お前、俺に『手伝いをしろ』って言ったな? 覚えてるか?」
「……はい」
 ミストは、ヴィンスターレルから目を逸らしつつ答える。
 ヴィンスターレルは、続けてこう言った。
「それにここまで巻き込まれてるんだ……今さらどうってことねぇだろ?」
「ですけれど……」
 再び、顔を向けたミストを捉えたのは、またもや漆黒の瞳だった。
 そこに灯る、強い意志の光。
「自分の言ったことには、きちんと責任を持て。分かったな?」
 ミストは深く溜息を吐くと、観念したように頷いた。
 それから、ゆっくりと、微笑む。
「はい」

 ――そうして二人は、メイドスへの道程を進んで行く。

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