ルール
監視官は薄暗い部屋の中にいた。
見覚えなどない。
一瞬、何がどうなっているのか、彼は全く理解出来なかった。
そして、ぼんやりとした頭で、思いを巡らせる。
ここは私の部屋ではない――ここはどこだ? なぜ、自分はこんな所にいるのだろう。
確か昨日は『国民監視法』の最終調整を深夜まで続けていて――そうだ、今日はその決議を行う大事な日ではないか!
彼は慌てて立ち上がった。その途端、軽い眩暈を起こす。思わずよろけて後ろに手をつくと、たった今まで、自分が腰掛けていた物へと触れる。どうやら自分はベッドに座っていたようだ。固いマットレスの粗末な代物で、シーツなどは、掛かっていなかった。
少しずつ目が慣れて来たので、彼はあたりをゆっくりと見回してみる。冷たい灰色の石の壁で構成された部屋だった。
広さはそれほどなく、どこを見ても窓らしきものはない。ただ、灰色の壁が続くばかりだ。
地下室だろうか。だが、天井を見上げてみるが、照明などはなく、彼が腰を掛けていた、こぢんまりとしたベッドが在るだけだ。他に生活用品らしきものも見当たらない。
あまりに釈然としない状況に、取り乱しそうになる心に、彼は必死で言い聞かせた。
そうだ、こういう時こそ、冷静であらねばならない。
彼はゆっくりと呼吸を整えると、とにかく、状況を整理しようと努めた。
『国民監視法』は、文字通り国民を監視し、国民の安全と治安を守ることを目的とした法律だ。その内容は歴代の『監視官』が定めることになっている。一応議会にはかけられるものの、殆ど監視官の独断で決まる、という暗黙の了解があった。
現監視官である彼が推し進めていた新法案の内容は過激とも取れるもので、確かに治安の悪くなってきた昨今には必要だ、との声もあがっていたが、同時に国民のプライヴァシーをも著しく侵害する、と反対の声をあげる者も多かった。
それでも、彼はそんな声はものともせずに、強引に事を運んで来た。全ては国家の治安を守る為、国民の安全の為だと彼は信じて疑わなかったからだ。どちらにしても『国民監視法』は、初めから彼の一存で決まるようなものなのである。
……となると、これは反対派の仕打ちだろうか。そう考えれば、納得がいく。
すると、徐々に彼の中に怒りが込み上げて来た。
「どこなんだここは! 私は忙しいのだ! ――誰なんだ一体、こんな下らない悪戯で、私の貴重な時間を無駄にさせる奴は! 早く私をここから出せ!」
堪えきれず大声を出した彼は、直ぐに、しまった、と後悔した。こんな所へ監禁するような輩だ。もしかしたら、私を暗殺しようなどと企んでいるのかもしれない!
しかし、暫く経っても、誰もやって来る気配がない。自分の声が届かなかったのだろうか。
それとも、あたりには誰もいないのだろうか。
不安と苛立ちを持て余しながらも、彼は丹念に部屋の中を見てみることにした。
もしかしたら、ここから出られる糸口が見つかるかもしれない。
そう思い、ふと目を向けた先に、鈍色に冷たく光るものがある。
近づいてみると、それは鉄製のドアだった。
こんなもの、先程まであっただろうか。部屋を見回したときには、灰色の壁しかなかったというのに……。
一抹の不気味さを感じながらも、部屋が薄暗かった為と、気が動転していた為に見落としただけだろう、と彼は解釈した。
触れてみると、ドアは確かにそこにある。ひんやりと肌に冷たい。
期待もせずにノブを回してみると、意外なことに、あっさりと動く。どうやら鍵は掛かっていないようだ。
しかし、見張りなどが立っているかもしれない。そう思いながらも、彼は意を決し、少しだけドアを開いてみた。出来た隙間からそっと外を覗く。
誰もいない。気配すらしない。
彼は半ば自棄になり、そのままドアを開け、素早く外に出ると、音を立てないよう注意しながら、後ろ手にドアを閉めた。
外に出てみると、とてつもなく巨大な空間が広がっていた。
向こう側は霞んで見えない。
しかし、上を見上げると、彼方に天井のようなものが薄らと見えるから、どうやらここは屋内らしい。
今しがた出て来た方に見える壁も、天井らしきものも、全て灰色だった。
そう。全て、だ。
もうすでに、彼が出て来たドアはなかった。
まるで初めからそこに存在しなかったかのように。
彼は、あまりの事に呆然とした。
そしてまるで、爪先の方から、灰色をした影が這い上がって来るかのような寒気を感じた。
一体ここはどこだ?
なぜ私はここにいるんだ?
私は夢を見ているのか?
それとも、幻でも見ているのか?
先ほど装っていた平静さも吹き飛び、気持ちの整理など全くつかないまま、何かに導かれるように、彼はよろよろと歩き出した。
それにしても、何という広さだろう。まるで砂漠のど真ん中にでも放り出されたかのようだ。
それもコンクリートで固められた砂漠だ。
遥か彼方にある天井も灰色。床も灰色。何もかもが灰色だ。
空気までもが、灰色がかって見えるような気がする。
覚束ない足取りで、彼が来た道を何気なく振り返ると――
壁がなかった。すっかり見えなくなっている。
「――馬鹿な! たった今、来た道だぞ!?」
彼は思わずそう叫ぶと、急いで来た道を駆け戻った。しかし、一向に壁は見えて来ない。
この巨大な空間の所為で、方向感覚が狂ったのだろうか。そんな筈はない。五十歩も歩いていないというのに!
いくら走っても何も見えて来ない。
在るのは灰色の床と、幽かに見える天井のようなものだけだ。やがて息が切れて来て、彼は立ち止まる。
あたりを見回しても何も見えない。聞こえるのは自分の荒い息遣いだけだ。
冗談ではない。これでは本当に砂漠のど真ん中に放り出されたのと同じではないか。
彼は放心し、そのまま床へとへたり込んでしまった。
「これは夢だ! 夢だ! 夢に決まっている! 何でもいいから早く醒めてくれ! ……夢だ! 夢だ! 夢だ!」
そう叫びながら、彼は、冷たく固い、灰色の床を何度も何度も拳で打ちつけた。
やがて、鈍い痛みとともに、手には血が滲み始めていたが、それでも彼は止めなかった。
こんなもの、夢に決まっているのだ。
頼むから早く醒めてくれ!
「やれやれ……『大声で叫び続けること』は、第千百四十条で禁止されているんですけどねぇ……」
唐突に人の声がした。監視官は、はっとして顔を上げる。
デスク。
たった今まで何もなかった筈のその空間に、恐ろしく大きなデスクがあった。それはあたかも、空気から滲み出て来たかのように思える。
広い上に、圧巻なのはその長さ――『距離』といった方がいいかもしれない――だった。向こう側が、ぼやけて全く見えない。
そこには夥しい数の男たちが、灰色のスーツに身を包み、丁度、会議でもしているかのように向かい合い、規則正しく座っていて、黙々と何かを紙に書き綴っている。
それぞれの傍には、うず高く積まれた紙の山が出来あがっていた。
監視官から見える範囲では、見知った顔は一人もいない。だがもう既に、彼の頭の中からは『反対派の陰謀』だとか、そのような考えは抜け落ちていた。
人だ。人がいた。
どっと湧き上がる安堵と、緊張の入り混じった複雑な思いのまま、彼はため息を漏らす。
ここがどこだか聞いてみよう。きっと何か分かる筈だ。
先程、声を上げた男に、話しかけようとした、その時だった。
「第二万九千二百三十四条! 『デスクをペンで連続して、五回以上叩いてはならない』!」
突然、地鳴りのような声が、そう告げた。
声と呼んでいいのかどうかも分からない。この広い空間の端まで届くのではないかと思える程の圧倒的で、威圧感に満ちた『音』だった。
その直後、目の前が凄まじい地響きとともに激しく揺れる。監視官は立っていられなくなり、思わず頭を抱え、硬く目を閉じた。
気がつくと、すべてが元通りになっていた。
というよりも、どこも変わった所はないように見える。
巨大なデスクを囲んで座る男たちも、平然とした顔で、黙々と作業を進めている。
「な……何なのだ一体……」
「もう……『驚愕の声を漏らすこと』も、第九百二十二条で禁止されているのですが……まあ、『ビジター』ですから『議長』もお許し下さるでしょう」
先程の男が、監視官に向かって、やけに甲高い声で言った。
丸眼鏡に、やはり他の者と同じような灰色のスーツを着た神経質そうな男だ。
禁止? ビジター? 議長?
監視官は言葉すら出てこない。
一体何のことだ? ここは一体どこなんだ? なぜ私はこんな所にいるんだ!?
先程からの疑問が、彼の頭の中で何度も何度も反芻される。
「あなたはこちらに来たばかりのようですから、ご説明しますが」
男は監視官の状態など気にも留めていないように、早口でまくし立てる。
「ここでは人間を縛り付け、守らせる為の規則を常に考案しているのです。指定の用紙に法案を記入し、『提出口』から提出を行います。するとそれは『議長』の元へと届けられ、採用されれば、先程のように『議長』から、ご報告頂けるのです」
男が示した方を見ると、デスクの上には、ちょうどポストのような穴が、それぞれの男たちの目の前に整然と並んでいた。
「馬鹿な!? 規則は人間を守る為にあるんだぞ! 『人間を縛り付け、守らせる為の規則』だと? 個人の尊厳や自由はどうなるんだ! そんなものは本末転倒ではないか!」
その男の言葉を聞き、頭に血が上った監視官は、つい、この異常な状況も忘れて声を張り上げた。
丸眼鏡の男は、少しだけ驚いたような表情を見せたが、直ぐに、耳に着く甲高い声で喋り始めた。
「自由がいいという輩もいるみたいですがね。彼らは『自由』という規則が欲しいだけの事です。私たちのやっていることと、何ら変わりはしない。いや、寧ろ私たちのしている事の方が、余程、建設的です。自由なんてものは初めから存在しないのですよ。なぜなら、自由とは恐怖ですからね。誰も守ってくれやしません」
「私たちが規則を創る度に、この『部屋』は狭くなっていきます。そして壁が私たちに見えるようになった時、そこにある扉から『楽園』への道が開かれるのです。『楽園』では何でも思い通りに物事が運び、願いは何でも叶うのです。皆が幸せに暮らせるのです。私たちがしているのは、その為の努力なのです」
いつのまにか丸眼鏡の男の隣りに立っていた、小太りで、まるで壺のような形の顔をした男が、恍惚とした表情でゆっくりと続ける。彼の身に付けているものも全て灰色だ。
この巨大な空間が『部屋』だと?
『楽園』? 何なんだそれは……
「狂ってる……」
ついそう漏らした監視官の言葉に、丸眼鏡の男の片眉が、敏感に反応した。
「『狂うこと』は第十九条によって禁止されています。よって私たちは『正常』です」
澄ました顔でそう答える男に、監視官は言葉を失った。完全に論理が破綻している……。
「……い……今は何月何日の何時何分だ――なのでしょうか……?」
そうだ。こういった輩は変に刺激しない方がいい。何をされるか分かったものではない。
監視官は、なるべく日常的な会話をすることで、自分の中の均衡をも保とうと考えた。
それでも、自分の声が震えているのが分かる。緊張の為だろうか。それとも恐怖の所為だろうか。
しかし、その努力は、次の男の言葉で脆くも崩れ去った。
「『時間』は第八条で禁止されています。よってここには時間は存在しません」
「じ――時間が存在しない……? それは、『時間を確認してはいけない』という……意味――でしょうか……?」
「いいえ。言葉通り『時間』が禁止されているのです」
時間が禁止されている……?
その言葉は、いくら自身の中で反復し、確認してみても、到底、監視官には受け入れられるものではなかった。
きっと何かの間違いだ。そうだ、もっと別の質問をすればいい……。
「しょ、食事などは、どう……されているのですか?」
「『食欲』は第十一条で禁じられています。その為、私たちは食事を摂ったり、腹を空かせることもありません」
丸眼鏡の男の甲高い声が、遠くから聞こえて来るような気がする。監視官は今にも自分が意識を失ってしまうのではないかと思った。
いや、出来れば失いたかった。
「あなたも一緒に規則を創るといい。皆で『楽園』にいきましょう。あなたの席は、初めからここにあるのです」
小太りの男の方が薄笑いを浮かべながら、再び口を開いた。
男が示した方へと目を遣ると、確かにひとつだけ席が空いていた。
もう限界だった。
「冗談じゃない! 『初めからここにある』だと? なぜ私があんたらのような、頭がイカレた連中と一緒にされなくてはならないんだ! ふざけるな! 大体『議長』なんて奴はどこにいるんだ! 姿なんかどこにも見えないじゃないか!」
その言葉を聞くと、薄笑いを浮かべていた小太りの男の表情が途端に曇った。そして困惑したような表情を浮かべたまま、子供をなだめすかせるように、優しげな声色でこう言った。
「『議長の存在を疑うこと』は第一条で禁止されていますよ」
その言葉を聞くか聞かないかのうちに、監視官は走り出していた。
こいつらでは埒が明かない。その『議長』という者に会わなくては。そいつがきっと、ここにいる男たちを操っているに違いない。
『議長』に会えば、ここから出る手がかりもきっと見つかる筈だ。
彼は巨大なデスクに沿って、全速力で走り続ける。
息が切れて、苦しい。
汗がとめどなく肌を伝い、シャツがピッタリと身体に張り付いていて、気持ちが悪い。
灰色のスーツの裾がたなびき、同じく灰色のネクタイが激しく目の前で揺れる――
――灰色!?
なぜ、私は、あの男どもと同じような格好をしているのだ――!?
思わず彼は立ち止まりそうになったが、今はそんなことに構ってはいられない。どちらにしても、ただ担がれているだけなのだ。なんて大掛かりな悪ふざけだ!
しかし、行けども行けども、デスクの端は見えて来ない。彼はデスクに座って黙々と作業を続けている男たちの顔を見ながら走り続ける。やはり見知った顔は一人もいない。
それどころか、皆同じような顔に見えて仕方がない。
個性のない服装の所為だろうか。皆同じように見える。
皆同じように――
気がつくと、デスクの端に着いていた。
見れば、先程の丸眼鏡の男と、小太りの男もデスクに向かい、作業をしていた。
二人の男に挟まれた席がひとつ、空いている。
同じ場所に戻って来ている――!?
監視官は戦慄した。何かのトリックか? それとも私が狂っているのか――!?
いや、そんな筈はない。私は正常だ。こいつら皆でグルになって、私の混乱する様を心の中で笑っているのだ。そのような手になど絶対乗るものか!
相変わらず、二人の男に挟まれた席は空いていた。
監視官は、挫けそうになる心を必死で叱咤しながら、心の中で繰り返す。
そうだ、あの男の一人が言っていたではないか。『壁に出口が在る』と。
それに私がここへ来た扉だって確かに在ったのだ。いくらここが広くとも、必ず見つかる筈だ。
きっと自力でここから出て見せるぞ!
そう決意を固めながらも、彼は重い足取りで歩き始めた。
あれからどれほどの間、歩き続けただろう。
一時間か? 半日か? 一日か? 時間の感覚が全くない。
そもそも、ここに時間などあるのか、という気さえ起こって来る。
そういえば、あの丸眼鏡の男も言っていた。
『ここには時間は存在しない』、と……。
監視官は朦朧とした意識の中で考えた。今はその言葉の方が真実のように思える。疲労と絶望感に苛まれる彼のもとに、もう幾度となく聞いた声が届く。
「第二万九千二百五十二条……!」
『議長』の言葉とともに、地響きが走った。
気がつくと、あたりには相変わらず、とてつもなく巨大な空間が広がっていた。
向こう側は、霞んで見えない。